三浦豪太さん、アコンカグア遠征日記(2019年1月21日)

アコンカグア登頂に挑戦中の三浦雄一郎校長。同行する息子で医学博士の三浦豪太さんより、日々の様子が送られてきています。本サイトでも一部紹介いたします。
今回は、1月20日〜22日までの3日間、三浦雄一郎校長が下山となり、バトンを渡された豪太さんがアコンカグア山頂へ到達するまでの激動の3日間を全3回に渡りお伝えしてまいります。


 

 

1月21日
天気:晴れ 強風
00:00 起床
01:30 ニド・デ・コンドレス(5500㍍)出発
03:20 ベルリン小屋
03:44 プラサ・コレラ(6000㍍)
06:30 インディペンデンシア(6380㍍)
08:50 ラ・クエバ(6660㍍)
11:12 山頂(6961㍍)
14:05 ニド・デ・コンドレアス着
16:00 テント移動
18:00 夕食
18:50 就寝

昨夜はほとんど寝れなかった。
急なドクターストップによる父の下山とその判断に対する自分の責任、バトンを渡され山頂を目指す役割、ニドから一気に山頂へ行くという急激な展開、全てが急すぎて頭が混乱している状態で、暗闇のなか出発準備を始める。

それでも、身体を動かして準備をしていると気持ちが落ち着いてきた。考えればとてもシンプルだ。自分のペースでともかく山頂を目指せばいいんだ。そしてお父さんのザックとサングラス、帽子をかぶってその気持ちを山頂に届けよう。

ウェアの件で悩んだ。倉岡さんから上下エクスペディションウェアで行くほうがいいと言われたが、どう考えても暑すぎるように思えた。しかしこのことで、倉岡さんに後ほど感謝することになる。

先頭はガイドのジャニー、後ろに倉岡さん、その後ろにはエミリアーノ、カッチャ、ハビエールがいて平出くんとケンロウくんは撮影のため前に行ったり後ろに回ったりしている。

登るペースは自分で決めていいらしい。
僕がジャニーのすぐ後ろにつくとジャニーもそのペースに合わせて前に出る、遅れると少し歩みを遅くしてくれる。寝不足だけど、昨夜酸素吸ったせいか体が軽くジャニーとの距離を詰めていく。ペースよく昨日1時間半かけて降りてきたプラサ・コレラへ登りでも2時間ほどでつく。標高差が500mなので単純に換算すると登高スピード250mということになる。ここが標高6000㍍と考えるといいスピードだ。体も軽いジョギングしているくらいに感じる。今日はなかなかいける。

正直不安が大きかった。アコンカグア登山は父に標準を合わせていたので、サポートの僕たちも十分な高度順化ができていなかった。たまたま強風の為、6000㍍で2泊していたが、それ以外は最高5000㍍のステイを1日と、父に先立ってベースを出発して5300mのアメギノ峠に宿泊しただけだ、それでも前日、一旦酸素を吸引して休んだせいか順化は十分できているように感じる。

インディペンデンシア手前で強烈な風が吹き、思わずよろめく。しかし、インディペンデンシアまで登ると全く風を感じず穏やかである。時刻は6時半、うっすらと周りが明るくなってきた。つかの間の休息、ここでアイゼンを履き、ゴーグルを装着、日が差してきたので、ヘッドランプをしまう。
帰りはここからスキーでニド側に滑って降りるつもりなのでスキーと酸素をここに置いていく。

本来、僕の高度順化はここまでなのでこれ以上は酸素を使う予定だった。しかし身体の調子はすこぶるいいので無酸素でも十分いけるだろうと思った。でも一抹の不安があったので念の為、倉岡さんに酸素を1本持ってもらうことにした。

インディペンデンシアの稜線を越えると強烈な風が吹く。風に吹き飛ばされないよう前のめりになりながら歩を進める。この風はラ・クエバに続くトラバースの途中にあるピナクルというところまで吹きつけている。以前から聞いていた強烈な風 <白い嵐> - 嫌だという思いよりもその風に出会えたことを光栄に思う。

ピナクルに着くと眼下に巨大な山脈の影が見える。影アコンカグアだ。はるか太平洋に伸びんとするそのスケールに圧巻、何もかもが壮大なる景色だ!

そこからラ・クエバまで標高差は僅か300㍍ほど。しかしここにきて今までのペースはもう保てなくなっていた。急に足が重くなる。父から聞いていたが、ここがいやらしいガレ場の始まりである。ガラガラと崩れる岩と雪面のミックス。斜度が増して、一歩登るのに苦労を重ねる。
ラ・クエバとは洞窟の意味で、確かに洞窟のようなくぼみがある。これが海抜0m㍍であれば30分ほどで登ってこれそうな距離であったが、喘ぎながらようやくその洞窟に転がり込む。ここは窪みと山影で風から守られているので、ゆっくりと休む。羊羹とクラッカーを食べる。しかし、そのクラッカーも口の中の水分を持っていきそうでその場で吐いてしまった。
水分補給をして出発前におしっこをしようとしたが出ない。よほど脱水なのかと思った。

ラ・クエバから山頂まで急斜面が続いている。アイゼンを横にしてカニ歩きしながら進む。さらに自分のスピードが落ちている感じがした。そのなか、平出くん、倉岡さん、ケンロウくんのスーパー・エリートチームは何事もないようにスタスタと登っている。
彼らのスピードが悔しくて一生懸命スピードを上げようとするが呼吸息した分しか足が上がらない。喘ぐように呼吸、タイミングをみて足を上げる、この繰り返しを延々と続く。

やっとアコンカグアの頂上直下、標高差にして100㍍地点まで登りつく。ここからはなだらかなトラバースをいき、一旦、山頂直下を回りこむようにして山頂を目指す。今までのペースだと30分くらいかな、と思ったところで急に視界が歪んだ。手足もしびれ、動いていないのに胸の動悸が激しい。

一瞬意識が飛びそうになるのでストックに寄りかかる。様子がおかしい、足にも手にも力が入らずその場で一度しゃがみこむ。いったい自分の身になにが起きているのか分からず、怖くなった。
でも、以前エベレストの8千㍍地点で脳浮腫や肺水腫になったときのような頭痛や肺の痛みを伴うものではない。意識もはっきりしているし自分がどこにいるのかもわかっている。ただ激しい目眩と手足のしびれだ。深呼吸をすると少し収まるが、一歩足を進めるとすぐに身体じゅうの力が抜けてしびれる。怖くなり、後ろにいる倉岡さんに「なんだか調子がおかしい」と伝える。
すぐにかけつけてくれた。頭がはっきりしている分、パニックになっているのが自分でもわかる。僕はこのままダメになるのではという思いに囚われる。

すぐに倉岡さんがザックから酸素ボンベを取り出してセットしてくれた。ゆっくり吸って吐く、少しずつ手足の感覚が戻る。極度の酸欠状態になったようだが、あまりにも突然におこり、その状態が続いたため訳が分からず、パニックになったのだ。そのとき、アコンカグアの山頂に立つことよりも自分の命が大切に思え、家族の顔が目に浮かぶ。

倉岡さんが「大丈夫、あと少しで頂上だ」といって励ますが、僕の気持ちは一度萎えてしまった。

しかし、父が断念したのに、今ここで僕が続いて倒れてしまったらどうにもならないだろう、という気持ちで、気持ちを奮い立たせ、恐る恐る足を山頂へ向かって進める。酸欠の身体に酸素が吸引されると今度は逆に元気になる。毎分2リットルの酸素を吸ったとたんに足が動くようになり、スピードもあがる。ただ次なる不安がよぎる - 酸素の残量だ。僕たちの前に軍隊がいてそのペースがあまりにもゆっくりで、なかなか上に登らせてくれない。残量(時間)を考えると追い越して少しでも早く行きたいと思うが、それを倉岡さんに止められる。

それから30分ほど登り、山頂についた!

しかし、直前に酸素を使用したということで素直に喜べない自分がいた。確かに素晴らしい絶景だが、自分自身の過信とオーバーペースによって倒れてしまったことが恥ずかしく、すっかり父の思いやここまで支えてくれた人たちへの感謝の気持ちを忘れそうになってしまった。
それでも倉岡さん、平出くん、ケンロウくん、ジャニー、エミリアーノ、ハビエール、カチャが、チームメイトのみんなは僕が登れたことに本当に喜んでいる。恥ずかしがっている方がよっぽど恥ずかしい。

そして33年前、当時53歳の父がここまで二日間でベースから登ったという話を思い出した。今回、父と一緒に登れなかったが、こんなにも厳しい山を今の僕以上のペースで登ったという事実に改めてその強さと大きさを感じた。

本来なら父と一緒に登り共に立てると思った山頂であるが、この辛さを感じることによって、尚更にその存在を身近に感じ、一緒に登ったのだという気持ちが芽生える。

ひととおり撮影を終える。直下で倒れたあとに、山頂まで酸素を吸ったせいか身体の調子は戻ってきた。
しかし歩こうとするとまだふらつく。下山も酸素を吸わせてもらい後ろからジャニーにロープで支えてもらうという情けない形となった。

インディペンデシアまで到着、酸素を吸ったせいか少し体が楽になった気がする。せめてスキーをここからしようと思い、滑走可能な斜面を再度登り始めるが思うように足がでない。どうやら根本的に体力の限界のようだ。この調子でスキーを滑ると怪我をすると思い、本当に申し訳ないがスキーをまた下までガイドに降ろしてもらうことにする。

どうにかこうにか体を引きずってニドまで下山したが芯から身体は疲れ切っている。

倉岡さん、平出くん、ケンロウくんも同じようで、倉岡さんは酸素を吸いながら外で大の字に寝ている。
6000㍍の滞在から急な父の下山、その数時間後のアタック、あまりにも全てが一気で、一つひとつちゃんと消化できずにここまできた。最後は自分の至らなさに情けない思いであった。
夕食のとき、そんな話をみんなにした。
すると倉岡さんは、「やっぱりペースが早いと思ったよ、だいたいそういうのはあの辺りで倒れるのだよね」といった。
僕は「だったら早くいってくださいよ!」といったら倉岡さんが
「でもあそこでペースをゆっくりしなさいといったら、何も学ばないじゃないか、あそこで倒れてもそれでも生きて山頂に立って帰ったからこそ学びが大きかったんだ」といわれ妙に納得した。

恥ずかしかったけど、情けなかったけど、確かに自分の過信や過ちから学ぶにはあそこで倒れる思いをしなければ次に続かないなと思う。

(写真提供:ミウラ・ドルフィンズ)

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